望まぬアドバイスの罪

アルファポリスという出版社から『わたしはわたし。そのままを受け止めてくれるか、さもなければ放っといて。』という名前の本が刊行されている。

内容はいわゆる名言集と呼ばれる類のもので、まぁ、よくあるしつらえの、さして得るものの無い本なのだが、このタイトルを目にしたときには衝撃が走った。モヤモヤしていた思いを言語化してもらえたと感じたのだ。

アドバイスとは、一般的にありがたいものだと認識されているように思う。たとえ求めていなくとも、転ばぬ先の杖としてありがたがるというか。

小さなころから、アドバイスが嫌いだった。命令されるのがイヤなのではなく、自分の考えを否定された気になるのがイヤなわけでもない。深く考えてみたら、理由が2つあることに気づいた。

ひとつは、自分の責任を離れてしまうから。だれかのアドバイスを受けて起こした行動は、成功しても失敗しても、アドバイスをした人のものとなる(ように感じてしまう)。

スキゾイド的気質の人は賞賛や名誉を特段望まないと言われることもあり、成功した場合はあまり問題はない。だが失敗すると困る。その人のせいで失敗したと思ってしまうと、望まぬ負の人間関係を持ち続けることになってしまう。

もちろんこれは、人による。スキゾイド的な人でも、「アドバイスを受けて行った行動も自分の責任だ」と感じられるなら問題ない。だが自分はそうじゃない、というだけのことだ。

もうひとつは、自分の感情を操作された気持ちになるから、ということだ。なにかを意思決定するとき、そこにはなにかしらの感情が宿る。ポジティブな感情であることが多いだろうけれど、やむにやまれず選んだことならネガティブな感情が宿っているかもしれない。だが、その明暗は関係ない。問題となるのは、自分の感情をアドバイスによって上書きされてしまうことだ。

スキゾイド的気質の人は、自分の内面的なエリアに侵入されることを嫌う(と言われている)。とくに自分の感情はなによりも大切で、侵されると精神に異常をきたすこともある(し、実際に自分はそうなった)。

自分から求めたアドバイスなら大丈夫だろうけれど、望まぬ助言は助けにならないどころか、ありがた迷惑だ。

「おせっかい」の価値は時代によって移り変わるが、一時期、非常に疎まれていたこの作法も、昨今ではまた望ましいものになりつつあるように見える。

情報過多で選ぶことに疲れた人たちにとって、レコメンドや(主にウェブメディアで使われる、ただの寄せ集めをカッコよく呼んだだけの)キュレーションといった、ある種のおせっかいなアドバイスは、今やありがたいものなのかもしれない。

しかし、ことスキゾイド的気質の人においては、「余計なお世話」に成り下がる。個人的にはAmazonからレコメンドをなくす機能が欲しいくらいだ(じゃあ使うなよ、って言われそうだけれど)。

時代はアドバイスを要請している。
スキゾイドはアドバイスから距離を置きたがる。

積極的コミュニケーションが価値となる時代に、我々スキゾイドはいかに生きていくべきか。スキゾイド版『君たちはどう生きるか』の刊行が待たれる。

Photo by Charles Deluvio on Unsplash