この世に「絶対」は無い、とよく耳にする。多様性という耳心地のいい言葉でごまかそうとする人たちが、よく口にする言葉だ。彼らは差別する/されることすら、多様性に含まれると思っているようだが、差別は絶対に悪であると言い切れる。存在してはならない、明白な悪。差別主義者は差別されなくてはならないと思う。
そんなことを考えさせられたのがこのニュースだ。
「日本に合わない言葉遣い」“差別”文言めぐり反対根強く…LGBT法案 自民が議論開始
https://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000297357.html
「『差別はあってはならない』とか、厳しい対立を生むような言葉遣いは、決して日本の国柄に合わない。社会の根幹、家族そのものに関わる問題」などと、常軌を逸した発言をしたのは、(また)自民党の西田昌司参院議員。何をどう考えても狂っていると断言できるし、なぜこういった手合いが表舞台に立ち続けられるのか分からない。
この(たぶん)人間は、国民主権を否定していることでも有名だ。大日本帝国憲法を賛美し、「戦争する国」づくりを進め、教育勅語の精神を信奉する。マスク2枚もまともに配れなかった宰相と同じような思想を持っていることからも、今の自民党を体現しているような輩だ。
国民主権を全否定 自民・西田参院議員の異常な憲法観/「現行憲法は無効」が持論 侵略戦争を美化、「教育勅語」復活主張
https://www.kyoto-minpo.net/archives/2019/06/08/post-23362.php
私は京都生まれ・京都育ちだが、なんとこの輩は参議院選挙・京都選挙区でこれまでに3度当選しているという。代理職が多いとはいえ、多くの役職も歴任している。驚くくらいの歴史修正主義者かつ差別主義者が、自分が生まれ育った地で愚劣な発言を繰り返し、国政に大きな影響を与えていることに、激しい苦痛を感じている。
彼らはなぜ「差別してはいけない」と言えないのだろう?なぜ「差別はあってはならない」という言葉が、厳しい対立を生むように感じられるのだろう?自分たち権力者は差別する側の人間だから、差別はダメと言われると困るということなんだろうか。
もう日本は、先進国を名乗るべきではないと思う。人権意識に関しては明らかに後進国だし、アメリカのようなカウンターカルチャーが根付かないこの国は、ゆるやかな独裁を許容しているようにさえ見える。
多様性は大事なことだけど、「差別する人」を許容する多様性など必要ない。差別者は差別されなければならない。この世に「絶対」はほとんどないけれど、これだけはハッキリと断言できる。