松田青子さんの『持続可能な魂の利用』は、この世界に生きる全ての”おじさん”が読まなければならない名著だ。味わうことになるのは、渾身の力で打ち込まれ続けるボディブロー。おじさん特権に甘んじて生きてきた人たちは、きっと正気を保てない。
読みどころはたくさんあるが、今回記事で取り上げたいのは「敬語」というものの取り扱いについて。ライターの武田砂鉄さんもツイートされていたこの箇所が、まさに自身が抱いていた違和感を直撃した。
「考えてみれば、敬語とか丁寧語とかって、自分が尊敬している相手に使うものじゃないのか」
「軽蔑しているやつに、歳が上だから、男だからって敬語を使わなければこっちが失礼だなんて、言葉の設計がおかしくないか」
『持続可能な魂の利用』松田青子
日本では、なんとなく「年上の人には敬語を使うもの」という思考停止な考え方が主流なように思う。「相手が尊敬に値する人か」「敬意を払うに相応しい人か」という、敬語を使うにあたっての真っ当そうな判断軸は、あまり市民権を得られていない。
権力者や為政者など、力を持つ者には敬意を示さなければならない。なぜなら、その立ち位置に昇りつめるまでに、ただならぬ努力を重ねてきたからだ。その努力に敬意を払わなければならないーー。私が小学生のころ、道徳の授業でこのような話を教師から聞かされたことがある。自分の頭で考えることができなかった当時は、無批判にその言葉を真に受けていた。
しかし、どうにも居心地が悪い。なぜなら、私自身がその教師を尊敬していなかったからだ。その人間は「教師」「担任」「学級主任」「年上」「男」という、多数の”尊敬に値する”条件を備えていた。先の話に従うならば、私は彼に敬語を使わなければならない。
ただし問題があった。彼はそんな”尊敬に値する条件”を備える一方で、生徒のいじめを見逃し、女生徒にセクハラをはたらくクズ教師だった。敬意を抱くどころか、軽蔑すべき対象だったのだ。なぜあんな人間を「先生」と呼ばなければならないのか、小学生ながらに違和感を抱いていた自分は、真っ当だったのだと思う。
誰彼問わず敬語で話すのは、本来敬意を払うべき人間に対して失礼にあたるんじゃないだろうか。だって、敬意を払うべきでない人と同等の扱いをすることになるのだから。
先の教師の発言は、別に間違ってはいない。努力に対する敬意はあってもいい。ただ、誰に敬意を抱くか、それを判断するのはお前じゃないということだ。敬語を使いたい人は自分で決める。判断軸は属性じゃない。「男だから」敬語を使ってもらって当たり前だと思うな。「年上だから」敬意を抱かれて当たり前だと思うな。
さぁ、おじさんたち。この本を読んで、立ち直れないくらいボコボコにされてくれ。私はもうされた。
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