「うちの女の子にFAX送らせますねー」
「はい、事務の女の子が対応するんで」
「よく働く女の子がいるんですよ(笑)」
昭和の終焉から30年以上も経た令和の時代に、まだこのような発言を平気でしてしまう「おっさん」が生き残っていることに絶望したので、その話を少しさせてほしい。
ここでいうおっさんとは、悪しき「昭和の会社観」を体の隅々にどっぷり染み込ませた、男同士の上下関係にやたらうるさく、ホモソーシャルな関係を強要する上に人権意識は皆無、かつ表面上は穏やかなミソジニストのことを指す。これを読んでいるあなたの、上司あたりのポジションにそういった輩はよく生息している(当のおっさんがこの記事を読んでいるとは想定していない)。
「女性と男性」「女の子と男の子」など、性別で分けられた言葉を使った発言や文章で、相対する言葉に入れ替えたときに通用しなくなる場合は、その言葉は使い方に問題があると判断するようにしている。こう説明するとややこしいが、文例を出せばすぐにわかってもらえると思う。
「うちの男の子にFAX送らせますねー」
「はい、事務の男の子が対応するんで」
「よく働く男の子がいるんですよ(笑)」
違和感バリバリだ。男の子扱いされた男性社員は、年齢に関わらず、きっと気持ち悪いと感じるだろう。だとすると、女の子扱いされた女性社員も同様だと考えるのがスジだ。
おっさんどもは「女性だって、女の子って言われたほうが嬉しいだろう」「若く見られてるってことだから、その方がいいでしょ」とのたまうかもしれない。彼らはなにも、女性を嫌悪しているわけではない。単に下に見ているのだ。でもそれって、表面上は穏やかに見えるだけ、なおのことたちが悪い。悪気がある人間には対処法もあるが、悪気がない人間は本当に厄介だ。何を言っても「のれんに腕押し」になってしまう。
冒頭でその発言を晒したおっさんも、悪気なんて1ミリもないだろう。むしろ愛情を示していると思っているかもしれない。これを絶望と言わずに何と言うか。
この期に及んでオリンピックを開催しようとする”人権後進国”たるこの国の、中枢にいるのはいつもそんな「おっさん」だ。女性が当たり前の権利を主張する度、今のところはまだマジョリティを形成しているおっさんも数を減らしていくだろう。
地球上にはいろんな考え方の人間が生息しており、多様性の観点からも、尊重し合い、共存し合うことが求められている。しかし、いわゆる「おっさん」的なものは絶滅していいんじゃないだろうかと思っている。「おっさん」が幸せにするのは「おっさん」だけだ。その他の、あらゆる人を不幸にする。そんな存在が、果たして必要だろうか。
ちょっと過激になってしまった。
心を落ち着かせるために、Adoの「うっせぇわ」でも聴くとしよう。