これまでいくつかの会社で働いてきたが、上司が機嫌良くしている会社は働きやすかった。実際に機嫌がいいかどうかは別で、ひとまず自分の憤りを部下にぶつけたりせず、声をかけられたら一旦感情を飲み込んで笑顔で応対する、という自助努力(あまり好きな言葉ではないけれど)を怠らない人が上司だったら、ということだ。
「今日は社長、機嫌が悪そうだからさ。報告するなら明日にしなよ」
「なんか良いことあったみたいだね。今ならその企画、通るんじゃない?」
こんなやりとりがコソコソと行われるたび、なんだか居心地が悪くなる。人間という社会性のある生き物同士で活動しているのだから、その折々のシチュエーションに応じて、臨機応変に行動を変えるのは当たり前なのかもしれない。現代の社会では、人生でもっとも長く関わり続けることになるのは「自分の時間」や「家庭」ではなく、「会社」だったりする。その会社を居心地の良いものとするとために、多少は人の状況を慮る必要はあるだろう。
ただ、それでも私はこう思う。
「あなたの機嫌になんて興味ないんですけど」
私は会社に仕事をしにきている。生産性がどうとか、もっと売上を向上させるためにとか、そんなたいそうなことはあまり考えていない。ただ真面目に仕事をこなして、何よりも大切な自分の時間をゆっくり過ごしたいと思っているだけだ。体調が芳しくなくてあまり良い結果を残せない日もあるし、なぜだか絶好調でいつもの何倍もの仕事を終らせることができる日もある。多少のムラはあれども、いい仕事をしたいという思いは変わっていない。
だから、上司が不機嫌なのは迷惑だ。ただ機嫌が悪いというだけでダメ出しが増え、ただ機嫌が悪いというだけで普段なら通る企画が弾かれ、ただ機嫌が悪いというだけで衆人環視のなかで叱責される。会社にとって、上司が機嫌の悪さを隠そうともしないことは、なにも価値を生まない言っていい。
人をマネジメントする立場の人間に課されているのは、自身が現場仕事で成果を出すことなどではなく、部下のパフォーマンスを最大化することだと思っている。その意味で、この上司は最低である。機嫌が悪いことで働くみんなのパフォーマンスが著しく低下する。機嫌の悪さとは伝染病のようなものだから、瞬く間に感染していく。機嫌の悪い上司のもとで働く部下の機嫌が良いなんてことはありえない。こうして社内がパンデミックになる。パンデミック下の会社で仕事が捗るはずがない。
田中泰延さんという方の書かれた記事に、こんな言葉がある。
私は気づきました。(だれよりもしんどくて、不機嫌になっていたのはこの先生なのだ)と。しかし、私はそこから(先生は偉いな。先生も耐えているのだから、私も頑張って耐えよう)とはまったく思いませんでした。水分が不足して肉体が危機的だった上に、痛い思いをして血液まで失ったからです。
その時、私のなかに、ある決まりができました。「しんどくて、皆が不機嫌な状況に陥ったら、せめて自分一人でもさっさと立ち去る」これが、私の基本的な方針になりました。
あなたが機嫌がいいと、世界は機嫌がいい 【寄稿】田中泰延
機嫌の悪さを隠そうともしない上司が蔓延させた不機嫌の種が、社内の各地で芽吹く。こうなると、堪え合戦が行われてしまう。つまり、「みんな上司が機嫌で仕事をすることに耐えているんだから、わたしも我慢しなきゃ」と忖度し合うということだ。はっきり言って、この行為になんの価値もない。磨けるのは上司の顔色をうかがう能力だけだろう。その会社では役に立つかもしれないが、自分の人生においては無価値だ。
田中さんは、しんどくてみんなが不機嫌な状況に陥ったら、せめて自分一人でもさっさと立ち去るのが基本的な方針になったと語る。これには同意できる。人の不機嫌さに巻き込まれると、仕事だけではなく、人生のパフォーマンスが落ちる。会社に不機嫌さが蔓延するたび、私はその場を離れるようにしてきた。不機嫌な人間と関わっていいことはない。機嫌の悪い人とはいち早く離れるのが私の方針だ。
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