人を役職で呼ぶのは尊敬していない証

人に声をかけるとき、属性や役割ではなく、その人のアイデンティティが詰まった言葉で呼びたいと思う。1番はやっぱり名前。変わるかもしれない苗字よりも、おそらく死ぬまで共に生きることになる下の名前で呼びたいが、さすがにそんな仲でもない人を下の名前では呼びづらいから、妥協して苗字で呼ぶようにしてはいる。

私が人を役職で呼ぶときは、その人に敬意がない証である。苗字+役職の場合はまた別だが、役職のみで呼ぶ際は100パーセント敬意を持ち合わせていない。

役職など、ただの役割に過ぎない。しかも、必ずしもその役割にふさわしい人がその役職に就いているわけではないし、役職で呼ばせようとするような輩は大抵能力不足だったりするものだ。そして、そういった人は大方「おっさん」である。

なぜ「おっさん」は自分を役職で呼ばせたがるのだろう? 自分のアイデンティティは役職と紐付いているのだろうか。明日にはその役職でなくなるかもしれないのに、そんな不安定なものに自分を仮託して、怖くはないのだろうか。自分なら、変わらないものにアイデンティティを託したくなるが。

20代の一時期、とあるカフェチェーンの店で店長職に就いていた。特に指示したわけではないが、やっぱりアルバイトたちは自分を店長と呼ぶ。居心地の悪さから「さん付けで呼んでくれていいよ」と告げるものの、浸透するまでにはやはり時間がかかった。まぁ、自分に自信がなかったのが原因かもしれないが、やはり名前で呼んでもらえたときの方が気持ちいい。

仕事を辞した後も、その頃のアルバイトと話す機会がたびたびあったが、すでに「○○さん」と呼んでもらうようになっていたこともあり、不思議と関係性は大きく変わらなかった。ずっと店長と呼ばせていたら、お互い気まずかっただろうなと思う。

社長が社長じゃなくなったとき、私たちは何と呼べばいいのだろうか。上司が降格したときは? 役職で呼ぶ関係性は、居心地の悪い関係を生み出す発端となりかねない。別に良い関係性を保ちたいというわけではないのだけれど、確実に面倒は減る。あまり好きな言葉ではないが、ライフハック的なテクニック、いわゆる処世術なのかもしれない。頑なに役職で呼ばないことが処世術になる、というのも不思議な気がするけれど。

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