どうすれば「反省した」といえるのか

小学生のとき、日直の仕事をさぼってしまい、罰として反省文を書かされたことがある。適当に書いて提出したら「反省の色が見えない」と書き直しをさせられた。

憤った私は図書館で文章の書き方の本を読み、どうやったら反省していると伝わるかを考えながら書き直し、提出すると逆に褒められた。「うまい、よくできている」と。

しかし、私は自分のやったことを反省したから文を書いたわけではない。どうやって書けば、2度と書かされないで済むか。どうやって書けば、怒られないで済むか。そんなことしか考えておらず、少なくともそのとき反省は全くしていない。

実際に反省し始めたのは、だいぶ後になってからのことだ。

どうすれば「反省している」ことになるのか

「反省」という言葉は、デジタル大辞泉によるとこのように記されている。

1・自分のしてきた言動をかえりみて、その可否を改めて考えること。「常に―を怠らない」「一日の行動を―してみる」
2・自分のよくなかった点を認めて、改めようと考えること。「―の色が見られない」「誤ちを素直に―する」

この意味からは、「反省とは自発的にするものである」としか汲み取れない。となると、「反省させる」という言い方がそもそもおかしい。「人が誰かを反省させることはできない」ということに他ならないからだ。

となると、先の反省文の件で、先生はどのような行動を取るべきだったのか。

少なくとも、反省文を書かせることが何の意味もなかったことは確かだ。しいて言えば、文章能力の向上にほんの少し効果があったくらいだろう。

では、頭ごなしに叱ればいいのか? 「言い訳するんじゃない!反省しろ!」と。または、私が日直をさぼった代わりに、その日の仕事をやらざるを得なくなった学級委員のことを考え、「その子の気持ちになってみろ!」とでも言うべきなのか。

反省させると犯罪者になります

答えは『反省させると犯罪者になります』という本にあった。なんとも衝撃的なタイトル。

最初は「そんなバカな!」なんて思ったものの、よくよくタイトルを見ると、反省「する」ではなく、反省「させる」となっている。反省というものは、人に言われたからするものじゃなくて、自発的にするものであるという辞書の言葉どおりだ。

著者の岡本茂樹氏は立命館大学の社会学部教授で、臨床教育学の博士でもある。今回の本は、そのキャリアとは別に、刑務所での累犯受刑者の更生支援に携わっていたことから分かってきたことをまとめたものであるそう。

実際に多くの受刑者たちを真の意味での更生に導いていった実績があり、内容にも信憑性が感じられる。

罪を犯した直後に反省できるはずがない

反省というと、まず相手の気持ちになって考えることや、迷惑をかけた人に対する謝罪の気持ちを求められることが多い。

しかし、そもそも罪を犯した直後に反省できるのか。

私の例を引き合いに出すと、日直の仕事をさぼったことで「あーあ、怒られるよ……」とまず後悔した。次に憤る。なぜバレるようなことをしてしまったのかと。この間、全く反省していない。

どんな罪を犯したかにもよるとは思うが、殺人事件があった際によくマスコミが、「まだ容疑者は反省の言葉を述べていません」「残虐な事件を起こしておきながら、まったく反省している様子はありません」などとレポートしている姿をみかける。

反省していないことに憤りを感じる方が多いんだろうと思うが、そもそも捕まってすぐに反省の弁を述べるなんて、不自然じゃないだろうか。

先に後悔、次が反省

岡本氏によると、反省のメカニズムは「先に後悔、次が反省」であるとのこと。自分の例から考えてみても、これは納得のいくものだ。

「なんでこんなことをしてしまったのか、大変申し訳なく思います」という言葉がすぐに出てきたとしても、それは反省しているからではなく、罪を犯してしまったことを後悔していると考える方が自然だ。

反省の方法として、少年院などでは「ロールレタリング」というシステムが導入されているそう。これは、「自分から相手へ」ないしは「相手から自分へ」手紙を書いて、繰り返すうちに相手を理解していくように仕向けていく手法。

その中で、自分が押さえ込んでいた不満・怒り・悲しみなどを掘り起こし、反省の念を引き出すことを目的としていたそうだが、今は「被害者の立場」になって反省”させる”ことが目的になってしまっているとのことだ。

反省してもらうための指導とは?

岡本氏は、「どうしてそんなことをしてしまったのか?」とその本音を引き出してく姿勢が必要だと述べている。いきなり被害者の立場になって考えさせたり、気持ちを察しろと叱りつけるなどはもってのほか。どんなに被害者を侮辱するようなことを言い出したとしても、思うこと・感じることを全て吐き出させるのが最初だ。

信じられないことに、「殺されるあいつが悪い」「あいつは死んで当然だった」などと、それこそ死者を冒涜するような発言をも言わせきらないといけないらしい。

オブラートに包んだ無意味な反省の言葉ではなく、本音を吐き出させることで、そうなるに至った問題が明らかになっていく。多くは家族(主に両親)に対する不満や愛情不足だったり、学校生活などでの人間関係だったり。たまりにたまった本音を吐き出させることによって、やっと当人は自分の過ちについて素直に見つめなおせる。

「もっと親に愛してほしかった」
「もっと先生に褒めてもらいたかった」
「つきはなさず、受け止めてほしかった」

多くはそんなことが原因だったりするそうだ。そんな本音を素直に言えるようになったとき、初めて真に後悔し、ついには反省に至る。著者はこのように提言している。

自省する気持ちが生まれなければ、反省はできない

罪を犯した者の、理解しきれない話をすべて聞く。なんだかそれだけでも大変そうだ。だが、上記の例で私が反省に至ったのは、

1・反省文を書いたら認められてすっきりした
2・次の日登校したら、日直がやらなければならなかった仕事を残していたため、次の日直の仕事が増えたことでふたりの関係が嫌なムードに。しかし私はイライラして謝罪せず
3・なんで日直をさぼったりしたのか考え始める
4・よく考えると、その日は嫌なことがあってイライラしていたことを思い出す
5・イライラに意識を奪われていたのか、日直当番を失念していた。
6・悩みを話そうとしたら先生に忙しさを理由に断られたことがショックだった
7・しかし、代わりに日直当番を増やされた同級生には責はないので、素直に謝る気持ちが生まれた
8・謝罪

という心境の経過があったからだ。自省する気持ちが生まれなければ、反省はできないということなんだろう。

といっても、この本を読むまで当時の心の流れは自覚できていなかった。結局悩みを聞いてくれなかった先生を嫌ったまま卒業したため、謝罪していないし、真の反省の姿も見せていない。

絶対に言ってはいけない言葉

反省を早く求めない。まずそうなるに至った経緯をたどり、思いの丈をすべて吐き出させる。

このとき絶対に言ってはいけない言葉が、「だまって言うことをきけ!言い訳するな!」

頭の悪い上司を思い浮かべる人もいるだろう。著者も言及しているように、これは親子間でも重要な部分だ。ついつい「だまって親の言うことを聞きなさい!」なんて言ってしまっている人をよく見かける。

これでは、どこに問題があったのか子どもにはわからないままで、反省なんてしようがない。子育てにも、この本の教えは有効だろうと思う。

思いを押さえ込んでしまったら、真の反省は決してできない。様式だけにこだわった反省は、もう終わりにしたい。

Photo by Marc-Olivier Jodoin on Unsplash