禁忌であろうと、知的好奇心を抑えるな

先日読んだ小説、我孫子武丸の『殺戮にいたる病』。それはそれはグロテスクで、一切の共感を排除した、すばらしく悪趣味な小説だった。

実はもう何度も読み返しているが、とある場所で書評を書いた後、知り合いから「なんでこんな共感も感情移入もできない小説を好んで読んでるの? 変態なの?」と、何ともグサっと刺さる一言を投げかけられた。

なんでこんなに残酷で、全く共感できない物語を何度も読んでいるかというと、「共感も感情移入もできないようなインプットが人間には必要だ」と思っているから。

共感とか感情移入とか……そんなに必要か?

今の世の中、あらゆるサービスやコンテンツ、そして広告たちが「共感」を押しつけてくる。もはや共感の押し売りといっても過言ではない。まるで共感させたり感情移入させることが義務付けられているかのようで、正直かなり気持ち悪い傾向だと思っている。

一般的に共感を得られる行動や思想というものがあるのは理解できるし、そういったものを織り込むのは自然なことだとも思う。しかし、過剰過ぎる。

「共感できないなんておかしい!」
「感情移入できないからおもしろくない!」

そういったユーザーの感想を熱心に取り入れ続けた結果、「無難」で「わかりやすい」作品ができあがる。これほどつまらないものはなんて、他にないと思うんだけれど。

わかりやすい物語で溢れる世の中

テレビや広告といったパッシブなメディアから入ってくる情報が、ただでさえこういった「無難でわかりやすいだけのつまらないもの」だらけだというのに、自分で選べる本や映画・音楽といった趣味嗜好まで「共感」「感情移入」できるものばかりに絞っていては、人間としてつまらないものになり下がる気がする。

だから、意図的に「共感も感情移入もできないもの」に触れることを心がけている。趣味にしている読書には、とくにその傾向が強い。

『殺戮にいたる病』は、まさにその「共感も感情移入もできない作品」の代表のようなもの。終始不快な気持ちで読み進めることになるが、自分の知らない世界に一歩足を踏み込んだときのような快感がたしかにある。それが必ずしもよいことなのかわからないが、インプットを変えないとアウトプットは変わらない。

自分の城を築いてしまうSNSの恐怖

これはTwitterやFacebookといったSNSでも同じ。基本的にソーシャルメディアでは、つながりたい相手を自分で選ぶことができる。なので、気づけば自分がつきあいやすい人や意見を共にする人ばかりフォローしていたりする。そんな空間にいれば、さぞかし幸せに過ごせるだろう。

しかし怖いのは、その考え方が世界共通だと錯覚してしまうこと。自分好みの情報しか流れてこないわけだから、当然そうなる。本当にそうだとしたら世の中から揉めごとの類はなくなるはずだ。自分の部屋を一歩出てみれば、世の中は違う意見や考え方だらけであることはすぐにわかるが。

要するに、臭いものにフタをすることができるのがソーシャルメディアという奴だ。

たとえ禁忌であろうと、知的好奇心を抑えるな

ニュースを見ていても思うが、基本的に「悪しきもの」や「公序良俗に反するもの」は隠される傾向にある。ソーシャルメディアの利用が当たり前になった結果、意図してモノゴトを隠し続けることは困難になったとはいえ、それでもタブーはなくならない。

私たちに届けられる情報は、何がしかのフィルターがかかっているものばかり。多くの人の目をくぐり抜け、漂白された情報を受け取るだけでは知的好奇心は満たせない。もし満たされているのだとしたら、それはとても残念なことだと思う。

知的好奇心を満たすためには、自分からアクションするのが一番。自分の価値観は一生モノではない。そもそも今抱いている確固たる価値観も、過去の経験や情報から構築したものであるはず。生まれてすぐに悟ったわけではない。であれば、今後得る情報や経験によって、価値観は様々なかたちに変化していく。

モノゴトを楽しめるかどうかを、共感できるか・感情移入できるかに頼っている人は、変化を恐れる人と言い換えることができるんじゃないだろうか。つまり、自分が安心できる価値観の中に閉じこもっていたいだけ。

例え知ることによって身を滅ぼすはめになったとしても、知らないで死んでいくよりよっぽどマシだと思っている。ただでさえ現実社会では理性に縛られた言動を求められるのだから、創作物を楽しむときくらい、幅広い価値観の海に飛び込めばいいのでは。

Photo by kevin hupfer on Unsplash