「隠さないが公言もしない」というスタンス

隠すつもりはないが、わざわざ公言もしない。「これって変じゃない?」と感じる事象について細々と書き連ねるこのブログや、反権力・反体制・消費アクティビズム・アンチマチヅモの観点から言葉を放つTwitterアカウントなどについて、私が取っているスタンスだ。別にやっていることを隠すつもりはないし、聞かれたら「やっている」と答える。だけれど、自分から「◯◯やってます!」と公言はしない。もちろん理由あってのふるまいだ。

おかしいことをおかしいと言ったり、間違っていることを間違っていると批判するのを、快く思わない人は意外と多い。おもしろかったり楽しかったり、人を喜ばせるようなコンテンツを世に放つべきで、批判的で盛り上がりに欠けるコンテンツは人を不快にさせるから控えるべきだ。そう面と向かって言われたこともある。例えばとあるブロガーは、「自分がおかしいと思うことであっても、場にふさわしくなければ迎合する記事を書いたりもできる。クライアントの要望に合わせてどんな原稿にでも仕上げられるのがプロの仕事だ」などと言っていた。私はこの考え方を否定する。

自分が人に好かれないことをやっているという自覚があるが、誰も言わないなら自分が言わなければならないという使命感も併せて持っている。だから積極的に発信する。ただ、そこに自分という存在はあまり必要がないとも思っている。大切なのは発言している内容であって、誰が発信しているかではない。何なら、この発言内容をまるごと自分のものとして広めてもらってもいい。盗まれて困ることは特にない。だって、私の思う「これって変じゃない?」の伝わる範囲が広がるのだから。

もちろんこれは、自分が言葉の責任を負わなくていいことにならない。自分で発した以上、責任は持つ。だから、「あなたはこう言いましたね?」「あなたはこのブログをやっていますね?」と聞かれたら、「はい」と答える。だけれど、自発的に公言していこうとは思わない。

その人に興味があって、その人がやっていることにも興味があれば、調べようと思うだろう。あなたの手にはスマートフォンという便利なハコがある。何しろ隠していないのだから、検索すれば何かしら情報が出てくる。たどり着くのは難しいことではない。その程度のアクションも取ってもらえないのであれば、例え積極的に公言してコンテンツに接してもらったとしても、お互いの関係はおそらく没交渉に終わる。そういった経験の数々から、あえて公言しないスタンスを取るようになった。

噛み合わない思想の人に、自身が発信する言葉を直接ぶつけたとして、何か良質な変化が起こるとは考えにくい。不特定な環境下で、不特定な人たちから明確な思想のメッセージを受け続けることで、自身の思想が変化することはよくある。私はそんな、「不特定な環境下で、不特定な人たちから明確な思想のメッセージ」として受信される内のひとつとして、発する言葉を存在させたい。

普段から思想を隠してはいないので、おそらくどんな考えを持つ人間なのかの情報はダダ漏れだ。なのに興味を持ってもらえないなら、その人に対して「やっていること」を公言する意味はあまりないと思う。人は、興味があれば自分から調べるものだ。売り込み広告のような真似はしたくないし、本当のところ、そうでもしないと「売れない」ものごとに、たいした価値はないのだと思う。

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