その「気持ち悪さ」はもっと口に出していい

誰彼問わず、人に向かって「気持ち悪い」と告げるのは好ましいことではない。そう言われたところで何かが改善するわけではないし、おそらく場の空気も相当重くなる。もっと建設的な言葉が必要だろう。

しかしこの「気持ち悪い」と感じる心情は、本能的・生理的なものに近い。思ってしまうことは仕方ないし、感じてしまったことをなかったことにはできない。自分の感情にウソをつくと心を病むのでおすすめできない(私がそうだった)。

だから、思ってしまうこと自体は制御しようとせず、なるべく口にはしないようにしてきたのだけれど、最近ちょっと考え方が変わってきた。「気持ち悪い」という言葉は、「バカ」とか「変態」などの言葉と違って、肯定的に取れる意味合いが全くない。「気持ち悪い」は100パーセント対象を否定する言葉なのだと思う。

最近とみに忌避している「おっさん」をイメージし考えてみる。彼らは大人になっても少年のような心を持っていることをひたすらポジティブに捉えて、「バカ」を「(愛すべき)バカ」に変換し、「変態」を「(人とは違うぶっとんだ思考のできる)変態」だと解釈する。

本来の意味で「バカ」「変態」と言っても、彼らはびくともしない。なぜなら、そういった言葉は如何様にも解釈できるからだ。だからおっさんはいつだって手に負えないし、この世から消え去ることもない。

そこで、「気持ち悪い」と声に出してみたらどうだろうか。パワハラを「やんちゃ」で片付けようとするおっさんを「気持ち悪い」と言ってみる。ボディタッチをセクハラと認識していないおっさんを「気持ち悪い」と言ってみる。きっと彼らは顔色を変える。ひょっとしたら「気持ち悪いなんて、人に使っていい言葉じゃない! 失礼だ!」なんて怒り狂うかもしれない。いやいや、その言葉、そのままあなたにお返ししますよ。

何事にも多様性が求められる時代だが、けっして考え方が多様であってはならないことがある。例えば「差別」はどうだろう。差別する自由があっていいだろうか。差別主義者が「差別する自由を認めよ!多様性を認めよ!」と叫んでいたら、私たちは口をつぐむべきだろうか。私はそう思わない。こういった人たちの言う多様性など、一切認めない。

迷わずこう言ってやろう。

「うわっ、差別主義者だ、気持ち悪い……」

さて、ここで先日話題になったこの記事を見てみたい。

LGBTの人たちへの理解を促進するための法案について、自民党の合同会議は、出席者から「差別は許されないと明記すれば、社会に混乱が生じる」といった懸念が相次いだものの、国会での議論を促すことを条件に党内手続きを進めることになりました。

※太字は筆者による

自民 LGBTへの理解促進法案 党内手続き進めることに

この言葉、この思考をあなたは理解できるだろうか。多様性の観点から、この人たちの考え方にも理解を示さなければと思うだろうか。

私はこの人たちを、素直に「気持ち悪い」と思う。吐き気すら催すほどに気持ち悪い。このような人間と同じ種族であることに嫌気がするほどに気持ち悪い。この気持ち悪さは、きちんと言葉として吐き出さないと自身の健康に差し障るレベルだ。私たちはもっと「気持ち悪い」と口に出していい。

多様性を認めるべきでないような狂った人間、狂った言葉、狂った思考には、論理的に指摘するより先に「あなたは気持ち悪い」と投げつける方がいいと思っている。狂った人間に論理は通じない。その人なりの狂った論理があるからだ。だからまず、本能的な拒否感を知らしめるほうがよい。

もちろん「気持ち悪い」との発言を許容することは、ある意味で人を差別するのに便利なこの言葉が、ブーメランとして自分に返ってくることも理解して、この記事を書いている。自分が信頼を置く人からこの言葉を直接投げつけられたら、ある程度のダメージは免れないだろう。

だけれど、自分が「気持ち悪い」と吐き捨てた物事や人から「気持ち悪い」と言い返されたとしても、ダメージは無い。例えるなら、差別主義者に「お前こそ差別主義者だ!」と言われているようなものだから。

過激だと言われるかもしれないけれど、「気持ち悪い」と言われても仕方のない人はいると思っている。

あのマスク2枚もまともに配れない無能な元為政者や、署名偽装に関わっていないと言い続けている包茎ビジネスの生みの親、大阪を牛耳るチンピラ集団のイソジンと雨ガッパなどは、総じて「気持ち悪い」と呼ばれて然るべき存在だと認識している。

こういった輩に、私たちは言葉を尽くして条理を諭すべきだろうか。もちろんその努力を諦めようとは思わない。だけれど、その前に私たちは、もっと「気持ち悪い」と口に出していい。

Photo by Clem Onojeghuo on Unsplash