京都に生まれ京都で育った私は京都が嫌いで、社会人になるとともに東京へ逃げた。もっとも嫌だったのが、「おもしろい話」を強要される空気感だった。
私の青春時代はいわゆるお笑いブームの最中だったこともあってか、オチのない話をすると総ツッコミを喰らっていた。お隣の大阪に比べれば大したことはないのかもしれないが、「つまらない話」「オチのない話」をすることへのバッシングはすごかったのだ。
別にお笑い芸人でもなく、お笑いに興味のない一般人にも、そんな「笑いの素養」が求められていた。それが耐えられず、逃げるようにして故郷を去ったのをよく覚えている。
そんな「笑いの素養」にもいろんな能力があるが、なかでも「いじる」という行為は本当に気持ち悪い。
いじられたら、それをおもしろおかしく膨らませて返すというアクションを起こさなければいけない。そこでつまらないことを言うと叩かれる。いじる側は圧倒的に優位で、そのいじり自体がつまらないことは何故か叩かれない。
いじる側は常に強者であることを踏まえると、「いじる」とはその場における圧倒的強者からのマウンティングに過ぎない。いじめとイコールと考えて差し支えないだろう。弱者が強者をいじることなど考えられないのだから。
東京で就職して、こういったお笑いマウンティングから逃れられたかと思ったが、どんな会社に行こうとも、必ずこういった輩が存在することを知った。もちろん地域柄によるところはあると思うが、人が集まる場所には、一定数このような人間が含まれるものなのだろう。
とある企業の社長が、まさにこういった人間だった。この世には、人をいじることでしかコミュニケーションを取ることができない人間がいるのだ。
その人は、とにかく社員をいじりたおす。仕事の無茶振りをごまかすためにいじり、有給申請した人の理由をいじり、飲み会を断る人をいじり、男女関係についていじる。口を開けば、その半分はいじりでできている。まわりがそのお笑いマウンティングを見て笑うものだから、ウケていると勘違いするその人はさらに人をいじる。地獄である。
「笑い」って、こんなに「つまらない」ものなんだろうか。そもそも人をいじることが笑いになる理由もよくわからない。そこで生まれる笑いって、いわゆる処世術としての笑いでしかない。笑っておいた方が場がうまく収まる、笑って流しておいた方が面倒が減る、そういった類いのものだ。笑うという感情表現のなかでも、もっとも価値の低いもの。私はそのように思う。だからこの「いじる」という行為、そしてそこで生まれる笑いを気持ち悪く感じるのだろう。
今日もまた、立場の弱い人がいじられ、そこで笑いが生まれるシーンを目にする。たしかに笑顔は生まれている。だけれど、いじっている人以外、誰も楽しそうではない。次にいじられるのが自分ではありませんように。そう願っているようにも見える。いじりはおもしろくない。そんな世界になればいいのに。
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