仕事に誇りをもつと、見えなくなるものがある

たびたび再放送されているEテレの番組『ねほりんぱほりん』。目にした回のターゲットは、芸能スクープ記者・カメラマン。放送前に騒動となった小室哲哉をめぐる文春のスクープに乗じ、急遽過去放送分と差し替えて再放送していたこともあり、「さすがEテレ、なかなかやるな」と感心することしきり。

毎回野次馬根性を発揮して観ているが、本放送の最後で抱いた違和感が今も「しこり」となって残っている。

彼らが人のプライバシーを暴き立てることに罪悪感も正義感もなく、仕事だからやっていると言い切る清々しさは見事だと思う。法律的にどうかは知らないが、「仕事だからちゃんとやる」ということ自体は賞賛されるべきなんだろう。

自分が違和感を抱いたのは、彼らが「需要に応えられる自分の仕事に誇りをもっている」と語り、司会の山ちゃん(南海キャンディーズ)が「そう言われると何も返せない、自分も仕事に誇りを持っているから」といった類の反応を示していたこと。放送は結局、この結論めいたものを最後に終わりを迎えた。

自分の仕事に誇りをもつ。それは素晴らしいことだと思う。異論はない。だが、需要に応えられていれば、誇りがあれば、どんな仕事にも価値はあると言いきれるのだろうか。

今回のターゲットだった芸能スクープ記者・カメラマンという仕事。個人的には、ものすごくゲスな仕事だと思っている。自分は表に出ないまま、犯罪でもない事柄を扇情的に煽り立てる迷惑な人たち。その程度の存在だと認識している。

そういった立場から見ると、彼らが自分の仕事に誇りを感じているかなどどうでもよく、そもそもその仕事自体に価値はあるのかと問い質したくなる。報酬があれば何でも仕事なのか、需要に応えていれば何でも仕事なのか、誰かの役にたっていれば何でも仕事なのか。「仕事」とは何なのか、わからなくなってきた。

「仕事に誇りを持つ」という大義名分は、仕事そのものの価値を覆い隠してしまうような気がしている。

ブラック企業で過重労働に甘んじていても、当人が仕事に誇りを持っていれば別にかまわないのか。プログラムを組めばあっという間に終わる仕事でも、手入力で1週間かけて終わらせたことに誇りを持っているならそれで良しとしていいのか。誇りの存在が本質を曇らせているように見えて仕方がない。

職業に貴賎はない。こんなものは嘘っぱちだと誰もがわかっている。さらにいうなら、人間にも貴賎はある。この放送で彼らに忌避感を抱いたのは、職業に貴賎があるからなのか、それとも人間に貴賎があるからなのか、それが今でもわからない。ただ一つ言えるのは、誇りがあろうとこんな仕事は必要ないということだけだった。

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