「事実」と「真実」の決定的な違い

某アニメの主人公がよく口にする「真実はいつもひとつ」というセリフ。昔からこの言葉が嫌いだった。「そんなわけあるかい!」と耳にするたび憤る。いつもひとつなのは客観的な事実のほうであって、主観にすぎない真実は人の数だけあるはずだ。

あるエピソードを例に示してみるとこうなる。

あなた(=X)の家で殺人事件が起こった。現場にいたのはあなたと友人A、友人B、被害者の友人C、そして加害者の友人Dの5名。

現場に駆けつけた警察が居合わせた4名に話を聞いたところ、以下の回答が返ってきた。

友人A「Xの家で遊んでいたときに、元々折り合いが良くなかったらしいCとDが突然喧嘩し始め、逆上したDがたまたま現場に置いてあったカッターナイフを手にし、Cの首を切って殺してしまった。Dはその後放心しているようだった。」

友人B「Xの家で遊んでいたときに、Cが吐いた悪態にイラッとしたように見えたDが、突然近くにあったカッターナイフを振り回し、それがCの首に触れてしまい、Cは出血多量で死んでしまった。Dは憔悴しているようだった。」

加害者の友人D「あまり仲の良い友人ではなかったXの家に、友人B、Cと集まり遊ぶことになった。Cとは小学校以来の友人だが、最近はXと仲良くしているようで、俺とは疎遠になっていた。

遊んでいる最中、Cが突然小学生時代の俺の失敗談について話し始め、皆が嗤った。どうやらCがXに注目されたかったためにこの話をしたと感づき、どうしようもなく苛立った俺は、近くにあったXのカッターナイフの刃を出してCに向け、苛立ちを吐き出した。

それでも俺をおちょくってきたCとXに腹が立ち、カッターナイフを振り回してしまった。その刃がCの首元に触れたかと思うと、首からは鮮血が吹き出し、あっという間にCは死んでしまった。なぜこんなことになったのか俺にもよくわからない」

さて、ここでの「事実」にあたる事柄はなんだろうか。

それは「あなたの家で、友人Dが友人Cを殺害した」ということ。何があっても揺るがない事実はこれだけしかないと思う。

それでは「真実」にあたる事柄には何があるだろうか。

「あなたの家で、友人Dが友人Cを殺した」

もちろんこれも真実だが、真実には主観が混じる。居合わせたそれぞれの供述は、「あなたの家で、友人Dが友人Cを殺した」という事実を内包する主観的な真実だ。

本心からそう認識した上で発した言葉もあれば、あとで考えたら「そうじゃなかったかもしれない」と思う言葉もあるだろう。しかし、それも含めて、それが「その人にとっての真実」となる。

現場となった家の主たるあなたは、どう供述するだろうか。

「…………………………………………」

今答えたこと、それがあなたにとっての「真実」だ。

ほんの少しでも主観が混じってしまうと、それは事実から離れてしまう。かといって混じりっけなし100%の事実というものが存在するのかわからないが、少なくとも「私はこう思う」「私にはこう見える」といった主観が混じったものは事実と呼べない。要するに、事実は「誰が見ても変わらないこと」と定義できるのかもしれない。

べつに真実を信じるなと言いたいわけではなく、それはあくまでひとりの人間というフィルターを通して見えた解釈であって、100%正しいことではないということだ。真実は簡単に造られてしまう。そう認識しながら、ものごとを見るクセをつけたほうがいいと思う。

ここで冒頭のアニメに話は戻る。自分はこのアニメが好きではない。じっちゃんの名にかけて真実を暴き出そうとするもうひとつのアニメ(とマンガ)も好きになれない。人生の途中、しかも数日関わっただけの探偵が暴ける真実など、その人の人生のほんの一部でしかないのだから。

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