「僕はそうは思いません」という、小さな抵抗

コロナウイルスについての最初の報道は、2019年12月31日だったそうだ。つまり我々がコロナに翻弄されはじめて、早くも1年半が経過したことになる。終息の気配はまったく感じられないが、日本の中枢は本気と書いてマジでオリンピックを開催するらしい。正直、いくら今の政権が狂っていたとしても、まさかオリンピックはやるまいと高をくくっていただけに徒労感は濃い。

政治やメディアへの不信は今にはじまったことではないとはいえ、この9年ほどで地に落ちたと言っていい。強行を止められず、むしろ止めようとすると「反日」と罵られてしまうような状況下で、無力感に苛まれてきたのだろうか、だんだん人間不信にもつながっているのを実感する。

この憤りや憎しみがどこから来ているのかを考えてみると、どうやら「侮辱」されていることにあるんじゃないかと思い至る。今、我々は舐められている。「君たちにはこれくらいでいいでしょ?」と上から目線でバカにされている。これを許してはいけない。きちんと抵抗しなければならない。反逆の意思を失ってはならない。世界に自分が変えられることを、甘んじて受け入れてはいけない。変わるのは自発的な意識によってでなければならない。

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。 それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。

マハトマ・ガンジーのこの言葉が身にしみる。世界を正そうとして発したその言葉はただちに無意味となり、無力感につながっていく。しかし、自分が世界によって変えられないために発した言葉は、誰にも無力化されることはない。

今まで自分は、何かを変えようとして発信してきた。しかしこれからは、自分が邪悪なものによって変えられないために発信していく。腐った言葉の掃き溜めのようで、気持ち悪くなってやめていたツイッターもアカウントを作り直して再開したが、誰もフォローしないことにした。

フォローされても仕返さないし、そもそも誰にフォローされているかをチェックすらしていない。フォローし合うことで発信にセーブがかかるのを恐れているからだ。つながりが増えるとしがらみも増える。その人たちがなるべく離れていかないような発言が増えるだろう。それは自分を変えられてしまうのと同義だ。思いをセーブしてはいけない。オブラートに包むのも控えたい。

作家の伊坂幸太郎さんが著書『逆ソクラテス』で、登場人物にこのように語らせていた。

「僕はそうは思いません」

そう、これだ。本当はそう思わないことを「僕もそう思います」と言ってはいけない。「違うだろ!」ともの申すのではなく、ただ自分はその考えと違うと小さく主張する。それだけで自分を自分らしく保つことができる。積極的にバトルするだけが抵抗ではない。「話に水を差す」という、小さな抵抗を諦めないように生きていこうと思う。

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