国や党、自治体などと近い仕事をしていると、その人たちに自然と便宜を図ろうとしてしまうものなのだろうか。とある仕事で商談をしていたとき、暴言で大炎上した大臣と関わっていたというその人が、困ったような顔でこう語っていた。
「悪い人じゃないんです。ちょっと言い過ぎたというか、よくある失言だったんですよ。いろいろとよくしてくださいますし、あんなことがなかったら、こちらも積極的に支援させてもらうんですが」
それに対し、こちら側の決裁権者はこう返していた。
「そうですよね、たしかに失言はよくなかったですけど、ここまで取り上げなくてもという気がします。こちらも今の菅さんにはお世話になってますし、前の安倍さんのときはもっとやりやすかったんですが。仕事でお世話になってるから、ぜひ応援したいとは思っているんですけどね」
こういった判断を、「清濁併せ呑む」と表現していいのだろうか。人間誰しも失敗することはある。それを一概に悪と断じず、広い度量で受けとめ、自身のビジネスを活性化させるためなら積極的に支援を続けるのが仕事というものだーー。働きはじめて15年以上が経つが、いまだにこういった考え方に馴染めない自分がいる。
社会のすみっこで言葉を使う仕事をしている私は、言葉を雑に扱う人と仕事をしたくないと常々思っている。表現が稚拙だとか、語彙が少ないとか、そういったことはそれほど問題ではない。武器になるとわかっている言葉を、権力を示すために、人を押さえつけるために、尊厳を奪うために使うこと、そのものに問題があるのだ。
そういった言葉を発する人間は、風向きが変われば、いとも容易くナイフの切っ先をこちらにも向ける。そんな人間は端的に信用できない。信用できない人と仕事はできない。現在便宜を図ってくれているような人でも、言葉を簡単に捻じ曲げるような人間は、何をきっかけに敵に回るかわからない。
政治家とは、言葉を扱う仕事の代表格だ。その発言には多大な責任が伴う。この人たちの言葉によって、私たちの生活は大きく左右される。誰しもが影響を受ける。だから「誰が」「何を」言っているか注視しなければならないし、暴言・失言は厳しく批判しなければならない。それが日頃から便宜を図ってくれているような人たちでも変わりはない。ーーと私は考えているのだが、冒頭の彼らは「それはそれ」と捉えているらしい。「それはそれ」? いや違う、「ダメなものはダメ」だ。
私は義理堅い人間ではないし、恩義があっても、血縁関係であっても、否定すべきものは否定することで顰蹙を買ってきた。最初で述べた商談中、暴言擁護に愛想笑いひとつしなかったが、即座に否定もしなかった自分は大人になった(なってしまった)というべきか。
「それはそれ」と本心を押し殺して迎合することは、今後もできそうにない。真っ向から否定するでもなく、つくり笑いしてしまうのを堪えながら、「ダメなものはダメ」「おかしいことはおかしい」「僕はそうは思いません」と小さく抵抗していきたい。
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