感動って「もらう」ものだっけ?
東京オリンピックに反対している人も、メダルラッシュが続けば容易に賛成派に回る。この2週間ほど、そんな内容の記事をいくつも目にした。始まる前からそう予測している人もいれば、その翻身の科学的根拠について語るような人もおり、開会後のメダルラッシュに手のひらを返した人をさっそく揶揄するような記事もたくさんある。
※参考記事
「五輪開催は人命軽視」そんな空気は日本の金メダルラッシュで一変するはずだ
東京五輪「始まれば盛り上がる」はどこまで本当? 心理学博士に見解を聞いてみた
東京五輪メダルラッシュで「手のひら返し」トレンド入り 民放各局の姿勢疑問視「玉川氏も嬉しそうに」
筆者は誘致の段階から反対だったし、遺憾なことに開催されてしまったが今からでも中止にすべきだと声を上げている。そもそも商業オリンピックの開催自体に否定的だ。
確かにこの「コロナ禍での開催」というシチュエーション自体に、否定を強めるニュアンスを多く含んでしまっているのは間違いないが、たとえパンデミックでなくとも東京オリンピックには反対だった。それにはいくつか理由がある。
- 招致段階で嘘に塗れている
- 高騰しすぎの開催費用
- 解決していない賄賂問題
- ボランティアのやりがい搾取
- 関連地域の漂白(無宿者等の排除)
- 子どもの動員
これは一例で、他にも挙げ出したらきりがない。反対理由のほとんどは以下の書籍で取り上げられている18の提言とほぼ同じなので、ご興味があればぜひ。
単なる金権イベントに成り下がった大規模運動会のクセに、やけに気高い目標(平和とかね)を定め続けている有様に辟易とするのだが、今夏のオリンピックで個人的に一番気持ち悪いと思っているのは「感情の押し付け」だ。
「感動をもらった」「勇気をもらった」
こんな言葉を使った記事を、開会後の3日ほどでいくつ読んだだろうか。ツイッターでの視認も含めれば、開催期間にもっとも使われた言葉として「感動」が抽出されそうだ。
選手の活躍を見て感動するのは個人の自由だ。オリンピックには数々の問題があれども、そこで努力を重ねる選手にはなんの罪もない、というよく使われがちな表現に、賛同するかの判断は保留しておく。ひとまず罪はないと思うが、なかにはそうでない人もいるだろうと思えるからだ。そこには、メダリスト出身で現在組織委を務める人間たちが、無様な発言を繰り返していることも関係している。メダリストやアスリートは必ずしも人格者ではない、ということを忘れないようにしたい。
ちょっと話が逸れてしまった。「感動」は自発的な感情によって発生するもの。誰かに「お前を今から感動させてやるぞ」と凄まれたところで、自発的に感動することはない。つまり、させられるものではないということだ。そういえば「感動する」は自動詞。やはり「させられる」という表現には違和感が残る。
考えてみると、意図的に感動させようとする主体が現れた瞬間、自発的に感動することはできなくなる。その感動は作られたもの。感動しようと思って、答え合わせのように感動している感を表出しているだけと言える。
オリンピックに臨むアスリートたちの中には、「応援してくれる人たちに感動を届けたい」「勇気と感動を届けることしかできない」などと語る人がいる。
コロナという災厄を吹き飛ばすような感動をみなさんに、という前向きな気持ちから発しているのだろうけれど、こちらからすると、そんな頼んでもいないものを勝手に送りつけられてもと困惑する。ましてや「与える」などと言われると、いや何様なんだよと怒鳴りたくもなる。
そういえば 2021年7月6日以降、一方的に送りつけられた商品は直ちに処分してOKになったそうだ。送りつけ商法という詐欺行為に対する妥当な対応かと思う。押し売りは断られて当然だ。
であれば、感動の押し売りも一緒ではないか。すぐに感動することを求められる点では代引きみたいだし、着払い的でもある。はっきり言って迷惑だ。
あなたの感動は私の感動ではない。いかにも感動しそうなアスリートの活躍よりも、人が無慈悲にバタバタ死んでいくB級ホラー小説に感動することのほうが私は多い。キャッチコピーからすでに感動で泣かせようとしてくるお涙頂戴系映画より、何も起こらない日常を淡々と描いた小説のほうが私は心にくる。
「感動する力」はその当事者にあって、させたい側の能力ではない。であれば、「させられる感動」など感動と呼べない。そんな低俗な感情に用はない。
感動したいならひとりでしてくれ。他人の感情を意のままに動かせると思うな。感動ポルノはもうたくさんだ。
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