「お前、人に興味ないんだろ。他の社員のことなんて何も考えてないんだろ」
とあるスタートアップ企業で、死にそうになりながら働いていたある日。1ミリも尊敬の念を抱けない上司から、そう吐き捨てられた。
言に(お前なんて辞めちまえよ)という言葉を滲ませながら、殴りかかられんばかりの怒りをぶつけられたこのとき、「もちろん」と「違う」という、相反する想いを抱いた。
そうだけど、ちょっと違う。人には興味あるんだよ。でも、人間関係にはぜんぜん興味ないんだ。
そのときは言えなかった。というより、まだはっきりと言葉になっていなかった。自分がスキゾイドパーソナリティ的性質を持つ人間だとわかったのは、その仕事が原因で倒れ、入院したあとだったから。
当時はひたすら記事広告をつくる仕事をしていたのだが、意識の高いまわりの社員たちとリレーションを築くのが、とにかく困難だった。一軒家で、ある種の家族的な関係を求められる環境。仕事はもちろんだが、プライベートの開示や、思ったこと感じたことの意思表示も強く求められる。
口に出さないのは悪、なんでもいいから話せ、黙すれば死。意味がわからなかった。なにも思うところがないのに、なぜ口に出さねばならないのか。安い言葉を発するくらいなら黙ってたほうがマシじゃないのか。
もちろんわかっている。明日死ぬかもしれないスタートアップに、そんな人間は必要ないということを。自分は間違ってスタートアップに迷い込んでしまっただけなんだってことも。
42度にまで達した熱は1週間下がらず、死ぬ寸前まで追い詰められたことはもちろん恨んでいるし、薄っぺらい思想で塗り固められたインチキなそのサービスなんて、はやく消えて無くなってしまえばいいのにと今も思っているけれど、「自分はスキゾイドなんだなぁ」と気づけるきっかけにはなったのは、ただひとつの加点対象ではある(もちろん感謝などしていない)。
自分は人間「関係」に興味がない。それは長きにわたって付き合いのある友だちがひとりもいないことが証明している。小学校、中学校、高校、大学、新卒で入社した会社、転職先の会社、ビジネスマッチングサービスで出会った人……。それぞれの折に、付き合いのある友人らしき人はいた。しかし、学年・学校を跨ぐ、会社を変える、サービスを辞める、といった節目で必ず関係は途絶える。つまり、ある程度以上の人間関係が必要になると、半ば自動的に関係が断たれていく。明確に「今日から付き合いはやめましょう」と申し出るわけではない。いわゆる自然消滅的になくなる。
基本的にひとりでいるのを好み、好きな本を読んで遊びたいゲームに興じ、内面的幸福を追求できればそれでいい。そんな人間にとって、人間関係は煩わしいものでしかなかった。そのこと自体に共感する人はいると思うが、一般的に「良い人間関係」といわれるものですら煩わしいと感じてしまうと言うと、大抵は怪訝な目で見られる(どうでもいいんだけれど)。
この線を辿っていくと、それは家族にも繋がっていく。べつに家族仲が良い悪いというわけではなく、とりたてて関係を結びたいとは思わないだけ。あ、さっき煩わしいなんて言ったけれど、じつはちょっと違う。「興味がない」のだ。この感覚を伝えるのは、ほんとうに難しい。
たとえば、会社の人が交通事故に遭って大怪我を負ったら、心配だしお見舞いに行ったりはすると思う。だけどそれは作法のようなもので、「こういうときはこうするものだよね」を実践しているだけにすぎない。人間関係的にはまったく興味がない。人には興味あるけど、関係を持つことには興味がない。うーん、やっぱり理解してもらえる気がしない(してもらえなくても、やっぱりどうでもいいんだけれど)。
正直、スキゾイド気質を持つ人間がこの社会で生きていくのは、けっこうつらい。でもきっと、こういう人は他にもたくさんいるだろうと思う。スキゾイド気質の人は、内面世界を充実させることで簡単に幸せになれる一方、社会に出ると絆(笑)とか仲間(笑)とか団結(笑)といった関係に取り込まれ、心への望まぬ侵入をたやすく許してしまう。
人から理解されないこの性質。べつに共感はいらないので、「人間関係ナシでも幸せに生きてる人間っているんだなぁ」と、宇宙人を見るような目で見てもらえるとうれしい(かもしれないし、やっぱりどうでもいいかもしれない)。
Photo by Hussain Badshah on Unsplash