パンデミック下でのオリンピックという破滅的愚行をどう記録するか

たいして盛り上がっているわけではないが、Twitterで時折 #五輪疎開#オリンピック疎開 というハッシュタグを見かける。

2020年に東京でオリンピックが開催されることが決まった直後から首都圏より脱出することを検討しはじめた私だが、新型コロナウィルスの蔓延により中止になる確率が爆上がりし、「脱出するかの判断は、もう少しあとでいいかもしれない」と思い直すことにした。

しかし、この判断は間違っていたのかもしれない。まさか、コロナ禍でも開催するだなんて、想定していなかった。IOCがここまで狂った組織だと思っていなかったし、日本がアメリカの属国なだけでなく、IOCにすら主権を奪われた情けない国だと思っていなかった。

こんなことならさっさと脱出していればよかった。食っていくために必要な仕事のこともあるし、家族のこともあるから、もう完全脱出するのは難しい。だけれど、脱出までいかなくとも、疎開ならなんとかなるかもしれない。そう思って何とはなしにTwitterで検索してみた結果、冒頭のハッシュタグを見つけるに至ったわけだ。よかった、同じようなことを考えている人たちがいた。

ここで自分には、2つの道が残されていると気づく。ひとつはオリンピック疎開をすることで都会から避難し、遠くからこの愚行を眺め、転落していく様を俯瞰した視点から克明に記録していくこと。もうひとつは愚行の渦中に留まり、都度その場で起きるリアルな悲劇を当事者の視点から克明に記録していくこと。

私はただの物書きだが、もう二度とこんな愚行を目にすることはないかもしれないのだから、貴重な経験として細々と綴っていくことで、後々意味を見いだせるかもしれない。過去にペスト禍で残された記録が、2021年の今、世界中の人に読まれるということもあるのだからと考えると、少しだけ前向きになれる(ちなみに、「こんな愚行」は2025年の大阪万博でもう一度見ることができるかもしれない)。

そういえばコラムニストの小田嶋隆さんが日経ビジネスの連載でこんな記事を書かれていた。

正直なところを申し上げるに、私は、ここへ来て、五輪の醜態を、ちょっと楽しみにしはじめている。

というのも、これほどまでに壮大な人類史的愚行をつぶさに観察できる機会は、この先、一生涯めぐってこない気がしているからだ。 2カ月後に、この国で展開されることになっている人間の愚かさの爆発を、私は、細大漏らさず、可能な限り克明に記録しようと思っている。

一介のコラムニストにできるのは、つまるところ、記録に尽きる。提言も批評も皮肉も、もはや用を為さない。
ただ、正確で詳細な記録だけが、国民的愚行に内在するなけなしの教訓を後世に伝える可能性をかろうじて維持している。私は、その簡単でない任務を粛々とこなすつもりだ。

2カ月後にこの国で展開される悲喜劇への覚悟

私もまったく同じ気持ちでいる。自身はコラムニストではないが、まがりなりにも書き物を中心に置いた人生を長く送ってきた人間として、この破滅的愚行をスルーすることはできない。招致の段階から嘘にまみれたこの金権イベントは、国内外問わず多くの書き手・撮り手・歌い手によって語り継がれることになるだろう。

オリンピックはけっして失敗しないという。それは成功・失敗の基準がないからだ。だから、開催されてしまえば必ず成功してしまう。それこそ、もはやパンケーキ首相すら口にしなくなった「夏の東京オリンピック・パラリンピックは、人類が新型コロナウィルスに打ち勝った証として開催され」たことになってしまう。たとえ打ち勝っていなくても。それだけはなんとしても防がなければならない。

私も微力ながら力を尽くそうと思う。ただ、その闘い方に悩んでいる。オリンピック疎開をすることで都会から避難し、遠くからこの愚行を眺め、転落していく様を俯瞰した視点から克明に記録していくか、愚行の渦中に留まり、都度その場で起きるリアルな悲劇を当事者の視点から克明に記録していくか。

もう、あまり猶予はない。

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